マジか!江戸時代!徳川家康の家来に外国人の武士(サムライ)がいた!

マジか!

江戸時代!徳川家康の家来に外国人の武士(サムライ)がいた!

 

 

みなさん知っていますか?

1600年代初頭に外国人の武士、つまり外国人のサムライがいたことを知っていますか?

島国なうえ鎖国をしていた日本に、本当に実在したのです。

 

1600年代初頭と言えば、徳川家康が関ケ原の戦いに勝利し、1603年に江戸幕府が開かれるころのことですね。

 

 

外国人の武士(サムライ) ウィリアム・アダムス

1600年代初頭に、徳川家康の家来として仕えていたのは、イギリス人のウィリアム・アダムスです。

なぜイギリス人のウィリアム・アダムスがサムライになったのか・・・

詳しくみていきましょう。

 

 

ウィリアム・アダムスの生い立ち

1564年イギリス生まれ、12歳で船大工の弟子入り。

その後、造船術よりも航海術に興味をもったアダムスは、海軍にはいり、船長として海戦も経験。

 

海軍を離れたアダムスは、貿易会社に入社して、航海士や船長として働いていた。

 

 

極東を目指して出航!

そんな中、オランダで極東を目指す航海のために、航海士を探しているという話を聞いたアダムスは、すぐに志願して採用された。

 

航海は5隻の船で出港したが、結果は惨憺たる結果となった。

はぐれた船もあれば、拿捕されたり、沈没したり、と最終的に日本付近へ漂着できたのはアダムスが乗っていた、たった一隻だけだった。

全部で110人いた乗組員も日本に着いた時は、24人にまで減っていたそうです。

 

 

海賊船として拿捕!

いきなり、日本に船で現れた外国人が信用されるはずもなく、侵略者、海賊船だとも思われていたので、最初はもちろん投獄されて、いろいろ調べられたようです。

即刻、処刑という案もあったそうですので。

 

しかし、アダムスは航海の目的や、航路の過程を、丁寧に説明することで、最高責任者である徳川家康の誤解を解くことに成功した。

 

 

ウィリアム・アダムスの功績

誤解をといたウィリアム・アダムス、そして、そのウィリアム・アダムスを家来として登用した徳川家康!

これが、実は日本の歴史を変えたかもしれません。

 

以下が、徳川家康の家来としてウィリアム・アダムスが行った功績です。

・外国使節団との契約や交渉の通訳や助言

・幾何学や数学、航海術を家康の家臣に伝授

・造船ドックを建て、帆船の建造も行った

・大型の船の建造も行った

 

ウィリアム・アダムスがいなければ、海外との貿易が実現されず、海外から遅れをとっていたかもしれません。

そして、ウィリアム・アダムスを登用した徳川家康がいなくても、海外から遅れをとって、いずれ欧米に侵略され植民地化されていたかもしれませんよね。

 

 

外国人初の武士!三浦按針となる!

このような数々の功績が、当時の最高権力者である徳川家康に認められ、外国人初の武士となったのである。

日本人武士としての名前は、三浦按針!

 

 

日本人の妻と結婚!

また三浦按針は、日本人の妻がおり、1602年ごろに結婚したとされている。

アダムスの妻は、家康の御用商人の娘(お雪)とされているが信憑性は高くないようだ。

 

日本人と結婚していたのは事実であり、息子のジョセフと娘のスザンナが生まれている。

 

 

三浦按針の子孫は?

三浦按針の子供たち、息子のジョセフと娘のスザンナの子孫は今、どうなっているのでしょうか?

日本にいらっしゃるのでしょうか?

 

結論としては、子孫は日本にいないとされています。

1639年に日本が鎖国を開始した際に、混血児の国外追放処分が行われたようです。

 

この時に、追放されたのではないかと、言われています。

悲しいことですね。