日本三大悪女は北条政子、日野富子、淀君。この人達ホントに怖い!

 

歴史の日本三大悪女って、

いったい誰でしょうか。

 
北条政子は日本三大悪女


 

日本三大悪女の3人の名前

を紹介します。

1人目:北条政子さん

2人目:日野富子さん

3人目:淀君さん

 

以下は日本三大悪女の歴史

について、わかりやすい内容

動画です。

歴史が苦手な人でも、参考に

ご覧ください。

 

北条政子

それでは最初に北条政子の

生い立ちについて説明します。

 

北条政子さんは、西暦1157年に

北条時政さんの家の最初の娘とし

て誕生します。

 

生まれは、伊豆国で今現在は

静岡県にある市の一つです。

 

西暦1177年の間、この時の

北条政子さんは20歳までの間

源頼朝さんと出会いました。

 

その後、2人は恋人に・・・

 

そして、20歳の年に源頼朝さん

と付き合っているのを親に知られ

てしまいます。

 

2人の仲を引き裂くために、親は

山木兼隆さんと結婚をさせようと

しました。

 

ですが、北条政子さんはどうして

も源頼朝さんと一緒に居たいと思

ったのです。

 

そして、親の反対を押し切る形で

源頼朝さんの元へ行きます。

 

そのまま駆け落ちをし、北条政子

さんが21歳の年に第一子を生み

ました。

 

第一子は、女の子で名前を「大姫」

と名付けます。

 

北条政子さんが、23歳の年に旦那

である源頼朝さんに鎌倉に来るよう

呼びかけられます。

 

その年に、家族揃って鎌倉に

引っ越しをしました。

 

北条政子さんが、25歳の年に

第二子を出産しました。

次は、待望の男の子でした。

 

出世し、2代目将軍頼家となります。

 

北条政子さんが、28歳の年に壇ノ浦

の戦いが起こりました。

 

壇ノ浦は、今現在は山口県下関市です。

 

壇ノ浦の戦いでは、旦那である源頼朝

さん率いる源氏と平家が戦います。

 

戦の本当の名前は、「治承・寿永の乱」

の後期の戦いです。

 

そこでは、源氏が見事に勝利

旦那さんが勝利です。

 

北条政子さんが、35歳の年に

第三子を出産

 

2人目の男の子で、出世し兄の跡

を継ぐ形で3代目将軍実朝となります。

 

北条政子さんが、40歳の年に娘の

大姫が病気で亡くなってしまいます。

 

それから、42歳の年に旦那である

源頼朝さんも急に亡くなってしまい

ます。

 

旦那が亡くなったのをきっかけに、

尼さんになるのです。

 

北条政子さんが、62歳の年に次男の

実朝が殺されてしまいます。

しかも兄の子供に・・・

 

その後、69歳の年に北条政子さんは

亡くなりました。

 

何故、北条政子さんは日本三大悪女

の1人とされているのか・・・

その理由とは・・・

 

それは、旦那である源頼朝さんとの

間にできた実の息子2人が殺されて

しまった原因をつくった。

しかも故意に・・・・

 

北条政子が行った政治により、

息子達2人が不幸な人生となった

とも言われています。

 

 
[ad#iku-1]
 

 

 

日野富子

 

日本三大悪女の2人目は

日野富子さんです。

 

西暦1440年に日野家の娘として

生まれます。

 

名前は現代の人かと間違いそう

ですが・・・

 

15歳の年に足利家8代目将軍

の義政さんの奥さんとなります。

 

日野富子さんが、19歳の年に

第一子が誕生します。

 

残念ながら最初の子供は、

すぐに死んでしまったようです。

 

日野富子さんが、25歳の年に

第二子を出産。

 

2番目の子供も、男の子で9代目

将軍義尚になります

 

日野富子さんが、33歳の年に

2番目の息子が将軍として職に

就きます。

 

その当時、息子を支えるために

日野富子さんは経済のことを中心

仕事をすることとなります。

 

日野富子さんが、40歳の年に

京七口に関所を作りお金を取ろ

うとしました。

 

今現在は京都への出入り口です。

 

日野富子さんが、49歳の年に次男

義尚が戦の最中に殺されてしまい

ます。

 

その当時の葬式で喪主を務めたの

は、日野富子さんです。

 

50歳の年に旦那である足利義政

さんが、亡くなります。

その後、尼さんになります。

 

日野富子さんは、56歳の年に亡く

なりました。

 

何故、日野富子さんは日本三大悪女

の1人とされているか・・・・

その原因は・・・

 

息子を将軍にするために応仁の乱

という戦争を起こす原因を作ったり、

敵味方関係なく、米や金を貸しまく

1人だけ富を築いたのです。

 

自分だけよければいい、という

一面がみえますね。

 

応仁の乱は、西暦1467年から

10年間くらい続いた戦いです。

 

 

淀君

日本三大悪女の最後は、

淀君です。

 

西暦1567年に、浅井長政さん

とお市の方さんの間に生まれます。

 

子供の頃の名前は、「茶々

でした。

 

生まれた場所は、近江国・父親

のお城である小谷城です。

 

淀さんが、7歳でまだ茶々だった

ころおじさんである織田信長さん

に攻撃されます。

 

そのせいで、父親のお城が燃え

落ちてしまいます。

 

母親や淀さんを含めた姉妹は

助かりました。

 

ですが、父親はお城の中で自殺

をしてしまいます。

 

淀さんが、16歳の年に母親は

おじさんの勧めで家来の柴田勝家

さんと再婚をします。

 

17歳の年に羽柴秀吉さん、後の

豊臣秀吉に、攻められ母親と

柴田勝家さんが自殺します。

 

まだこの当時、名前は茶々です。

 

母が自殺してしまった後は、羽柴秀吉

さんの大奥の1人となります。

 

淀さんが、23歳の年に第一子を

出産しました。

 

男の子で名前を「鶴松」と名付けます。

 

羽柴秀吉さんが築き上げたお城・淀城

へと引っ越しをします。

 

そこから、淀君と呼ばれ始め茶々では

なくなります。

 

淀君が、24歳の年に旦那である

豊臣秀吉さんから小田原に呼ばれます。

 

そして、小田原に出向きます。

 

25歳の年に息子の鶴松が、亡くなって

しまいました。

 

淀君が、27歳の年に第二子を出産

 

男の子で名前を「秀頼」と名付けます。

 

淀君が、33歳の年に旦那である

豊臣秀吉さんが亡くなります。

 

息子である秀頼こと、豊臣秀頼が

大阪のお城で跡を継ぐことになります。

 

淀君が、34歳の年に西の丸に

入ってきた人がいます。

 

その人が、徳川家康です。

 

淀君が、35歳の年に関ヶ原の戦い

がありました。

 

関ヶ原の戦いは、戦国時代の終わり

を告げる戦いです。

 

淀君が、38歳の年に息子の

秀頼にお嫁さんをもらいます

 

そのお嫁さんは、徳川家康の

孫娘である千姫です。

 

徳川に対する人質をとろうと

したわけです。

 

49歳の年に、豊臣家を滅ぼす

ために徳川家康が言いがかり

をつけてきます。

 

その時に起きた事件が、

方広寺鐘銘事件です。

 

淀君は50歳の年に息子と

共に自殺してしまいます。

 

何故、淀君が日本三大悪女

の1人として言われているか・・

 

その理由は・・・

 

言いがかりをつけてきた当時の

徳川家康は、まだ弱く大名とし

ては小さかったです。

 

徳川の要求をうまく受け入れれば

豊臣家が生き残る方法がありました。

 

ですが、淀君自身のプライドが高い

ために、最終的には豊臣家を潰す

とになってしまったのです。

 

日本三大悪女に、共通している点は

3人とも家族のことを考えていません

 

それどころか、自分自身のことしか

えていません。

 

どうしたら、自分自身にとって最も得に

なるかを優先しています

 

だからこそ、日本三大悪女と言われる

理由は自己中心的な考えと、行動

あるということです。