八甲田山の悲劇をわかりやすく!!生存者がいた!?

 

八甲田山には、昔に八甲田山の悲劇

というものがあったようですね。

 

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・八甲田山の悲劇とは?

・八甲田山の悲劇の生存者♪

・八甲田山の怖い話と幽霊♪

・八甲田山のアクセス♪

 

以下は、八甲田山遭難事故の

ドキュメンタリー動画です。

 

事故の真実に迫る動画で、

実際に事故が起きた日と同日

に撮影されたようです。

 

撮影の裏側などが見れ、当時の

厳しさもうかがい知れる内容です。

 

 

八甲田山の悲劇とは?

八甲田山の悲劇とは、雪中遭難事件

のことを言いますよ。

 

日本とロシアで戦っていた、時期が

あったんです。

 

日清戦争といって、1894年の夏頃に

始まり翌年の春頃に我が日本が勝っ

て終わったようですね。

 

その戦争が終わった、ロシアと日本は

遼東半島や中国東北部の権利を巡り

長い間争います。

 

そして、朝鮮半島にも手を出そうと

するロシア。

 

それに危機感を感じた明治時代の

日本は、ロシアとの戦いをするため

に準備を始めます。

 

青森県に司令部を置いている帝国

陸軍第5連隊は、日露戦争が始まっ

た後にロシア軍が青森近郊に上陸

したり攻めてきた場合に備えいろい

ろな対策を考え出す必要がありました。

 

万が一、ロシア軍に鉄道を壊されたり、

海岸付近を占領されてしまった場合に

備え内陸である八甲田連峰を歩いて

移動することになりました。

 

こういった考えのもとで、八甲田連峰

に関しての研究がされることとなります。

 

そして、冬になり雪中行軍が実際に

行われることとなります。

 

行われている行軍は、移動訓練はもち

ろんのこと、それだけではなく中国東北

部やシベリアといった極寒の地での戦

闘を想定した訓練と研究をしていたそ

うですよ。

 

青森県の第5連隊の第5中隊があり、

そこの中隊長の「神成文吉大尉」を

指揮官として行軍部隊を作ることに

なりました。

 

最初、神成大尉はこの部隊を小隊に

するか中隊にするか規模で迷ってい

ました。

 

なかなか決まらなかったからかもしれ

ませんが、上官である第2大隊長の

山口鋠少佐が中隊規模で作るとい

うことで、大隊本部を行軍部隊にす

ることに決められました。

 

上官の決定に対して、神成大尉は

逆らうことはできず210人という大部

隊からなる雪中行軍部隊が作られ

ました。

 

青森がスタートで途中に小峠や

大峠を越えて、田代温泉まで

1泊2日で行くということでした。

 

上官である山口少佐らが率いる

大隊本部は、臨時随行という形

で参加することになっていました。

 

ですが、雪中行軍部隊の全体の

指揮をとるのは神成大尉というこ

とになっていました。

 

本当は全体の指揮をとる神成大尉が

部隊のメンバーを決めるべきでしたが、

山口少佐が勝手に部隊を作って決め

てしまったのは軍のお偉いさんの期待

に応えたいということに夢中になってい

たからです。

 

それだけでなく、出発5日前に天気が

良かったため予備講習をしたんです。

 

その当時は凍傷になった兵が出なかっ

たため、雪がどれだけ危険なものかとい

う認識がなかったようですね。

 

実際にこれが原因に繋がったのかは

わかりませんが、この後八甲田山の

悲劇が起きてしまうことになります。

 

弘前にも連隊はあり、第31連隊でも

同じように雪中行軍の計画がありました。

 

青森と弘前の両方共が雪中行軍を

行うことになりましたが、どちらも雪中

行軍の計画されていたことを知らな

かったそうですよ。

 

弘前の第31連隊・「福島泰蔵大尉」が

指揮をとることになり、かなりたくさんの

時間をかけて部隊作りにあたりました。

 

この部隊は、将校37人と従軍記者1人

で合計で38人で作られました。

 

山などに詳しい地元の猟師さんを案内

人にして、民泊をすることも予定してい

ました。

 

弘前から小国経由で十和田湖南海岸

を通って、宇樽部へ向かうことになります。

 

三本木経由で田代・田茂木野経由で

青森に出て、浪岡を通って弘前に帰る

という全てで10泊するという行軍でした。

 

さぁさぁ、青森の部隊は1902年の真冬

に盛大な見送りを受けてスタートします。

 

青森の部隊が出発する3日前には、

弘前の部隊が盛大な見送りでスタート

しています。

 

だいたい同じくらいに青森の部隊と、

弘前の部隊は八甲田連邦に入るこ

ととなります。

 

青森の部隊は幸畑にある陸軍基地

を通り、南下し続けます。

 

途中には田茂木野村落を通っていく

途中、地元の老人に天候が悪くなっ

てきているから八甲田連邦に入るの

は無理だと言われます。

 

青森の部隊の将校は無視していこう

としますが、地元の老人は青森の部

隊の人達が心配だったんでしょうね。

 

「山に詳しい人を道案内としてつける」

と申し出てくれたのにもかかわらず、

それも拒否して老人を追い返してしま

うんです。

 

きっとここで、地元の老人の言うことを

聞き入山をやめるか・山に詳しい人を

付けてもらえば悲劇は起こらずにすん

だかもしれないんですよね。

 

田茂木野をすぎると急激に雪の積もる

量が増えてきました。

 

合計210人もの部隊は黙々と前に

進んで行きますが、最後尾をついて

歩くそり隊は大きく遅れてしまいます。

 

そのそりには、食料などいろいろな物

を積んでいるため重いため遅れてしま

ったんです。

 

正午少し手前の時間に先を歩いていた

部隊達は、小峠でそり隊が追い付いて

くるまでの間少し休むことにしました。

 

小休止中にも、天気はもっと悪くなり

始めました。

 

この日のその時の気温は零下11度に

なっており、凍りつくほどの寒さで兵士

が持っていた握り飯は凍ってしまった

んだそうです。

 

一緒に行っていた軍の医者は、軍医

という立場から状況的に判断し「この

状況では山奥に入るのは危険であり、

引き返すべきです」と神成大尉に言

いました。

 

神成大尉も軍医のいうことに対し同意

をし、山口少佐に指示をしてもらうこと

にしました。

 

山口少佐ら大隊本部の将校らは、

集まって会議を開きます。

 

軍の威厳と信望を縦にした強い意見に

押されて、山口少佐は出発の号令を

出しました。

 

山口少佐は上官であるということで、

指揮官を奪ってしまいました。

 

実際に決めるのは、全体の指揮をとる

神成大尉のはずでしたが…山口少佐

に奪われてしまいました。

 

神成大尉が決めていれば良かったで

しょうが、上官である山口少佐に指示

を仰いでしまったのが運命の分かれ

道だったんですよね。

 

そして、ここで運命が決まってしまっ

たため八甲田山の悲劇に向かって

進みだします。

 

ここから悲劇に向けて話が進むことに

なるんですよ。

 

出発してから1日経った24日になり

天気はというと、吹雪いていて止む

気配もありません。

 

ここでやっと山口少佐は、直ぐに

帰ることを主張し始めたんです。

 

遅いですよね、軍医の人に言われた

ときに帰っていれば良かったでしょうにね。

 

今まで素直に従ってきていた神成大尉

が、「朝になれば天気は回復するかもし

れないので、それから決めても遅くない」

と主張をしました。

 

まぁ、日付が変わったばかりでは外は

真っ暗で何も見えませんから、安全を

考えるなら賢明な判断だったでしょうね。

 

どれくらいの時間かはわかりませんが、

山口少佐と神成大尉の押し問答が続

きます。

 

ですが、ここでも上官という立場を悪用

し出発する号令を出してしまったんですよ。

 

24日の午前2時半頃に吹雪の中、

出発することになりました。

 

この日のこの時間の気温は、零下24度

だったようですよ。

 

ここから八甲田山の悲劇の本編となって

いくわけですよ。

 

猛吹雪のため視界は最悪、そして時間から

考えて外は真っ暗闇そして地元の案内人

はいないため道を間違えてしまいました。

 

馬立場を目指して進んでいたつもりでし

たが、間違って鳴沢渓谷に迷って入って

しまいました。

 

そのため進むも戻るもできなくなり、やむ

おえず崖をよじ登ることになったのです。

 

まだまだ真っ暗闇の中・猛吹雪もやまず、

手・足はかじかんで思うように動かずその

うえあまり寝ておらず、体は疲れ・お腹は

空いて・寒い。

 

そしてどれだけの人数かは定かではあり

ませんが、兵士が崖を登れず滑り落ち

ていく人がいました。

 

隊の中の1人の兵士は、「田代へ行く道

を知っている」と言ってきました。

 

山口少佐はその言葉を鵜呑みにし、

帰るという方針を撤回しました。

 

ここから田代に向かうことにし…実際は、

駒込川本流の深い谷に迷い込んでし

まったのです。

 

隊はまた崖を登ることとなり、高地に

向かいます。

 

…が、高地に着くまでに多くの犠牲者

が出ることに…隊全体の士気はかなり

下がってしまったんです。

 

その日の夕方になり、わずかな窪地

を見つけ隊は野宿することになりました。

 

兵士達の状態は極限を超えており、極度

の疲れから昏睡してしまう者、トイレを我慢

できず尿をしてしまいそのまま凍りついて

しまう者、気が狂って発狂していきなり服を

脱ぎ裸になって雪の中を泳ぎだす者、銃や

剣で木を刺しまくる者などいました。

 

そのまま倒れてしまい、もう二度と起き上がる

兵士はいませんでした。

 

それを見ていた神成大尉は、止まっている

よりも動いている方が被害が少ないというこ

とで、直ぐに出発することを伝えます。

 

山口少佐はこのまま止まって、朝を待つと

主張します。

 

神成大尉は山口少佐の言う通り、そのまま

朝まで待つことになりました。

 

ここまでで、40人くらい犠牲が出て

いたんです。

 

連隊本部では、雪中行軍を心配して

第5連隊隊長の津川鎌光中佐は24日

の昼過ぎくらいに救援隊40人くらいを

田茂木野まで派遣をしました。

 

計画だと24日の内に雪中行軍は、

帰ってくる予定でした…でも、夜中

になっても帰ってきませんでした。

 

弘前の部隊は、ほぼ同じ時に出発

しています。

 

宇樽部を出発して、地元の案内人に

先導してもらい犬吠峠を超え、戸来

を超えて中里まで到着しますよ。

 

青森の部隊は1日待ち、25日に

なりましたよ。

 

天気は良くならず吹雪いていますが、

出発することになりました。

 

持っていった食料ですが、全部凍り

ついてしまいました。

 

そのため、みんなお腹を空かせて

いて・極度の疲れもあり倒れていく

兵もいました。

 

山口少佐は両側を兵士に支えられ、

歩くことができる状態でした。

 

神成大尉と倉石大尉の2人が先頭に

なり、他の兵士達はその後ろをフラフ

ラとついていくのがやっとという感じです。

 

方位磁石は凍りついてしまい使い物

にならないため、神成大尉は地図を

使い馬立場を目指して歩いていました。

 

そして、ブナ林に行き当たることと

なりますが…神成大尉は、唖然と

することになるんです。

 

有名な「天は、我々を見放した」は、

神成大尉が言った言葉だったのです。

 

この時の神成大尉は、前までに死んで

いった仲間達のことを思い出し、自分

もそうなるもんだと考え始めていました。

 

倉石大尉は、斥候隊を2つ作って

田茂木野方面に送り出しますよ。

 

戻ってくるまでの間に、1人1人と

兵士達は倒れていきます。

 

かろうじて立てている人や、幻覚を

見ている人もいるんですよ。

 

そして、斥候隊が帰ってきて雪中

行軍も田茂木野に向かって進む

ことになり、馬立場の北に位置す

る森の中で野宿することになりま

した。

 

この時点で、雪中行軍は半分くら

いになってしまっています。

 

翌日の26日も猛吹雪の中ずっと

歩き続けています。

 

この時には、生存していた人は30人

くらいになってしまいました。

 

ここから、隊は2つに分かれ行動する

ことになるんですよ。

 

山口少佐と倉橋大尉と伊藤中尉と

その他数十人の隊は、駒込川に

沿って青森に向け歩いていたが、

渓谷にはまってしまい動くことがで

きずやむおえずここで救助を待つ

ことになりました。

 

神成大尉の隊は、田茂木野に

向かって歩き続けることにした

ようです。

 

神成大尉は後藤房之助伍長に対し、

田茂木野に向かい連隊本部に報告

するように命令します。

 

後藤伍長は、田茂木野に向け歩き

出しますよ。

 

 
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青森にある第5連隊本部では、

雪中行軍は遭難をしたと判断

をしました。

 

三神大尉を指揮官とし、新たな隊

ができました。

 

その隊は捜索隊で、その中には

地元の案内人を27人を含めた

合計60人です。

 

弘前の部隊は、25日から26日に

かけて中里から三本木経由で増沢

に着きました。

 

そして、翌日の27日に最大の難所・

八甲田山へ向かうために弘前の部

隊は、増沢を出発します。

 

もともと、弘前の部隊は地元の案内

人を7人雇っていました。

 

そして、青森では三神大尉が率いる

捜索隊は田茂木野を超え八甲田山

に入りました。

 

27日の午前に、大滝平で捜索隊は

雪中に不自然に立っている氷の塊

を発見します。

 

その氷の塊に近づいて調べてみる

こととなりますよ。

 

その氷の塊の正体は、雪中で立った

まま仮死状態になっていた後藤伍長

でした。

 

軍の医者は後藤伍長をすぐに蘇生

させると同時に、他の捜索隊は周り

を探しました。

 

後藤伍長を発見した場所から、西へ

100メートルくらい進んだ所に神成

大尉を発見しました。

 

蘇生するための処置をしましたが、

すぐに亡くなってしまいました。

 

神成大尉を発見した時には、皮膚は

カチコチに凍りついており注射針が

刺さらなかったそうです。

 

27日の晩のこと、青森の連隊本部に

三神大尉が駆け込み後藤伍長を発

見したこと・雪中行軍隊が遭難して

全滅したようであると報告しました。

 

そして、捜索隊として出た半分くらい

の人が凍傷にかかり行動が不可能に

なったことも報告しました。

 

連隊本部にいた人はどういう状況に

なっているのか知らなかったんでしょ

うね、この報告を聞き津川中佐は

顔面蒼白になったんだそうです。

 

そして、弘前の第31連隊にも連絡を

されたようで、第5師団挙げての救助

活動が始まりました。

 

遭難してから4日目のことであり、

一方弘前の部隊は田代に着き

野宿をしています。

 

さてさて、28日に弘前の部隊は

八甲田山に入ることになります。

 

猛吹雪の中を黙って歩く雪中行軍隊、

そのまま進んで行くと雪の中には銃

が2丁ありました。

 

そして、2人の兵士の遺体を発見し

そのまま進んで行きます。

 

この時の福島大尉はどこの部隊かは

わからないが遭難をしたと悟ったと思

われます。

 

猛吹雪の中進み、青森の部隊の

遭難した場所を通り抜け青森市街

の街明かりが見えてきました。

 

福島大尉は雇っていた、案内人7人

全員を帰すことになります。

 

電車賃として1人に2円ずつ手渡し、

「過去2日間に見たことは、絶対に

口外してはならぬ」と言い雪中行

軍隊は案内人全員を残し先へ

進みます。

 

弘前の部隊は、田茂木野の方面

に向かい進んで行きます。

 

29日の午前2時頃には、田茂木野

に着きますよ。

 

弘前の部隊は、ここで青森の部隊が

遭難したことを知ることになります。

 

田茂木野には遺体安置所があり、

そこには青森の部隊で亡くなった

遺体がありますからね。

 

そして、30日には弘前の部隊は

青森を通り浪岡に着きます。

 

翌日の31日には、弘前に着きまし

たがこの時怪我人を1人出したの

みで37人全員無事に帰ってきました。

 

27日には後藤伍長を見つけ、遭難

したとの報告を受けた後青森の連隊

本部では部隊を助けに行くため行動

を起こしていました。

 

29日までに資材を入れ、電線を置き

所々に伝令所を設けました。

 

同日に神成大尉の遺体が収容され、

翌日30日から本格的な捜索救援

活動が始まります。

 

賽の河原では中野中尉と36人の遺体

を見つけます。

 

翌日31日以降には、生きていた人16人

と160人くらいの遺体を見つけ収容します。

 

2月2日には最後の生き残った人を救い、

後は遺体だけが見つかりました。

 

範囲は広いためと積もってしまった雪の

ため、遺体を見つけるのと・収容する作

業は障害が多くなかなか作業がはかど

りません。

 

季節は変わり、雪解けの春を迎え遺体

を見つけやすくなりました。

 

ですが、遺体は腐り始めていたようで

雪解けの水と一緒に流され、下流に

住む住民に発見された遺体もあった

そうです。

 

三階滝上方では佐藤上等兵の遺体を、

5月28日に見つけました。

 

これで第5連帯雪中行軍隊の遭難した人、

全部の遺体を収容しました。

 

全部で193人もの遺体を収容したこと

になります。

 

武器や装備の捜索活動は、夏頃まで

行われたようです。

 

生きていて助けられた人数は、17人

でしたがその後亡くなってしまったの

が6人。

 

そのため、実際に生き残った人は

11人でした。

 

出発前の人数は、210人でしたが

199人もの命を落としてしまったと

いうことになります。

 

ほとんどと言って良いほどの人数が、

命を落とす事態になってしまったのです。

 

生き残った人の内五体満足だったのは、

倉石一大尉と伊藤格明中尉、長谷川偵

三特務曹長と及川平助一等兵の合計4人

だけでした。

 

後の7人は凍傷により手足を切断しない

といけなくなったため、戦うことができな

いために兵役を解かれることになりました。

 

その後日露戦争に、弘前の部隊と青森

の部隊の生き残った人達は参加しました。

 

福島大尉と倉石大尉は、黒溝台会戦で

亡くなってしまいました。

 

伊藤中尉と長谷川特務曹長は、重傷を

負ってしまいますが…及川一等兵だけ

はどうなったのかはわかりません。

 

後藤伍長は雪中行軍があったということ

をこの後の世代に伝えるため、「雪中行

軍記念像」のモデルとなり建てられました。

 

後藤伍長をモデルにした像は、1904年

の秋頃に発見した当時の姿を像にして

いるようです。

 

後藤伍長本人は、兵役を解かれた後は

故郷である宮城県姫松村に戻っていま

すね。

 

そこで村議会議員を務めることとなります

が、像が建てられてから20年後の夏頃

に46歳でこの世を去ってしまいました。

 

11人の生存者の中で最後まで長生きさ

れた方は、小原忠三郎伍長で1月31日

に大滝下流の渓谷近くで助けられました。

 

ですが、両方の手指と両方の足が凍傷

になったため切断されたため、兵役を

解かれました。

 

小原伍長は、3つの時代の日本を見続

け1970年2月5日に91歳という年齢で

この世を去りました。

 

明治・大正・昭和の時代を見つめ続け

るなんて、凄いことですよね。

 

小原伍長の遺骨の一部は、幸畑にある

陸軍基地に分骨されたようです。

 

山口少佐は、生きたまま助けられた17人

の内の1人でした。

 

助けられた日は、1月31日の正午過ぎく

らいかと思われます。

 

発見されすぐに病院に運ばれ、治療を

受け一時的には助かったようですが2日

後には亡くなってしまっています。

 

軍としての報告書では、「病気療養中に

死亡」ということになっているようです。

 

別の説では自殺をしたということもある

ようです。

 

小笠原氏が映画を作る際に取材した

時に、出てきた話のようで自殺説に基

づき映画「八甲田山」では山田少佐

(モデルの人物は山口少佐)は、銃を

使い自殺をしています。

 

自殺説には無理があるようで、山口

少佐も他の人と同様に凍傷を負って

しまっているからです。

 

その当時の山口少佐のカルテには、

「指が腫れて曲がっている」ということ

が書かれていたとのことです。

 

それではどう考えても、銃の引き金を

引くことができるとはとうてい思えませ

んよね。

 

そこが疑問になってくるわけで、自殺

でなければ殺されたという説が出てき

ます。

 

山口少佐の死因は、不自然すぎるた

め八甲田山の遭難事件の謎となって

いるようです。

 

八甲田山の悲劇の生存者♪

八甲田山の悲劇の生存者は、

「倉石一大尉」

「伊藤格明中尉」

「長谷川偵三特務曹長」

「後藤房之助伍長」

「小原忠三郎伍長」

「及川平助伍長」

「村松文哉伍長」

「阿部卯吉一等卒」

「後藤惣助一等卒」

「山本徳次郎一等卒」

「阿部寿松一等卒」

の合計11人だけでした。

 

八甲田山の怖い話と幽霊♪

怖い話は、「肝試しをするために4人の

若い男性が夜中に車に乗り、ドライブ

をしに八甲田山付近に出掛けたようです。

 

八甲田山に到着したととたん、車の

エンジンが突然止まってしまったんだ

そうです。

 

何度キーを回しても、エンジンはかかっ

てくれなかったそうで…あれから、どれ

だけの時間が過ぎたのでしょう…車の

外に何やら気配を感じました。

 

暗闇の中から足音を響かせながら近

づいてきます。

 

しかも、1人2人などの少人数の足音

ではなく大勢の足音だったそうです。

 

そして、車の周りは足音に囲まれて

しまったのです…今までエンジンの

かからなかった車が、嘘のようにエン

ジンがかかり急発進でアパートへ

向けて走り無事到着しました。

 

4人ともとてもじゃないほどの恐怖体験

に、怯えきっていました。

 

しばらくしてアパートの外から何やら、

不思議な音がしてきました。

 

その音はどこかで聞いたような

足音でした…それは、八甲田山で

聞いたあの足音だったのでした!!

 

その足音はどんどん彼らのいる部屋に

向かってくる…そして、足音の主は部屋

に入り込んできたのでした。

 

足音の持ち主は姿を現しました、なんと

軍服を着ている男達でした。

 

彼ら4人は軍服の男達に囲まれてしまい、

この出来事に身動きできずにいました。

 

軍服を着た1人の男が「わしはこの男の

右腕が欲しい。」と言い、堰を切ったよう

に他の軍人達もしゃべり始めました。

 

4人の若者は、恐怖のあまり気を失い…

次に目を覚ましたら朝になっていました。

 

あれは幻か…と思おうとしたそうですが、

部屋の中には泥靴の足跡がはっきりと

残っていたそうです…」

 

幽霊を見た人がいるんですよ、先ほどの

怖い話でのアパートの4人の若い男性

は軍服を着た幽霊を見たということなん

です。

 

八甲田山のアクセス♪

八甲田山へのアクセス方法は、

「JRバス」

「自家用車」

「タクシー」

「東北自動車道」

などです。

 

JRバスだと、

1:青森駅 一 酸ヶ湯温泉経由 八甲田ロープウエー駅前下車

2:十和田湖休屋 一 酸ヶ湯温泉経由 八甲田ロープウェー駅前下車

です。

 

自家用車かタクシーだと、

1:青森市 一 国道103号 一 八甲田ロープウェー

2:弘前市 一 国道102号 一 黒石市 一 国道394号 一 城ヶ倉大橋経由 一 国道103号 一 八甲田ロープウェー

3:八戸市 一 国道45号 一 国道4号 一 国道102号 一 国道103 一 酸ヶ湯温泉経由 一 八甲田ロープウェー

4:八戸市 一 国道45号 一 国道4号 一国道102号 一 田代平経由 一 八甲田ロープウェー

5:十和田市 一 国道102号 一国道103号 一 酸ヶ湯経由 一 八甲田ロープウェー

です。

 

東北自動車道のICだと、

1:青森IC 一 国道103号

2:青森中央IC 一 国道103号

3:青森東IC 一 国道103号

4:黒石IC 一 国道102号 一 国道394号 一 城ヶ倉大橋経由 一 国道103号

です。