足尾銅山公害!赤い池は日本破滅の前兆?廃墟には心霊が?

 

足尾銅山の公害事件、みなさん聞いた事はある

のではないでしょうか?

 

 

だけど詳しい事を知らない人も多いのではない

でしょうか?

 

一昔前に、すさまじい勢いで発展した足尾銅山

の施設など、今はもう廃墟状態・・・

出るらしいのです・・・心霊が・・・

 

足尾銅山公害によりできてしまった赤い池・・・

これは罪深き人間達への警告なのか・・・

 

その他、場所,アクセス,観光所要時間,歴史などなど

足尾銅山についてまとめました。

 

○足尾銅山が心霊?

○足尾銅山の赤い池?

○足尾銅山の公害は?

○足尾銅山の場所は?

○足尾銅山へのアクセスは?

○足尾銅山の観光所要時間は?

○足尾銅山の歴史は?

 

以下は、(足尾銅山について学びたいから、

いろいろと教えて!)という動画です。

 

 

足尾銅山が心霊?

足尾銅山が心霊と、どう関係あるかわからない人も

いますよね。

 

心霊スポットとして、足尾銅山が有名なんです。

 

足尾銅山が発展した時に多くの施設や住居が建て

られました。

 

閉山した今も、それらの建物は廃墟として残って

おり、心霊現象も目撃されており、有名な心霊

スポットになっています。

 

足尾銅山の赤い池?

足尾銅山の赤い池の話をする前に、昔

「足尾鉱毒事件」という日本で最初の公害が

ありました。

 

その鉱毒は、1973年に閉山されて抑えられた

ということでした。

 

ですが、実際のところこの鉱毒は終わっておらず、

今も続いているらしいのです。

 

鉱毒じたいは、足尾銅山にありますし、減るどころ

かこれからも増え続けているということなんです。

 

そして、少しでも減らすために処理をし続けなけれ

ばいけないんです。

 

それが、赤い池こと通称「伝説の赤池」なのです。

 

それは、鉱毒のせいで池を赤く染めているんですよ。

 

本当の名前は、「すのこ橋採石場」という名前の

鉱滓ダムなんですよ。

 

何百年という歳月をかけて、坑道は掘られました。

 

埋められれば楽なんでしょうが、1度掘ってしまった

坑道というのは埋めることはできないのです。

 

そして、掘ってしまった坑道から銅山の害の有る

重金属などを含んだ鉱毒が今現在も絶えることな

く、染み出してきています。

 

その鉱毒をそのままの状態で、河などに流して

しまうわけにはいきません。

 

そのため、鉱滓ダムが作られ有害物質を沈殿させて

ろ過してから河に流すという作業を今現在も続いて

いるんです。

 

一度でも開山してしまった銅山は、上に書いた作業

を永遠に続けなければならないんです。

 

日本の破滅・・・いや世界の破滅の前兆?

人間の勝手な行動に対する、母なる大地の答えなの

かもしれません。

 

足尾銅山の公害は?

足尾銅山の公害が、日本で初めてなんですよ。

 

鉱毒公害というものなんです。

 

足尾銅山の場所は?

足尾銅山の場所はというと、

「〒321ー1514 栃木県日光市足尾町通洞 9ー2」

なんです。

 

足尾銅山へのアクセスは?

足尾銅山へのアクセスは、

「JR」なら「日光駅」または「東武日光駅」

どちらかから、「市営バス」に乗って『53分』で

着きます。

 

足尾銅山の観光所要時間は?

足尾銅山の観光所要時間は、だいたい「1時間」

くらいです。

 

足尾銅山の歴史は?

足尾銅山の歴史は、1610年に足尾銅山の山が

開かれます。

 

1年後の61年から87年には、銅山がたくさん

出る全盛期でした。

 

1年後の88年から1704年には、産銅量が激減

してしまい幕府は運営資金に困っていたようです。

 

1816年には、産銅量が低下してしまい資金の

行き詰まりに見舞われました。

 

同年・戸谷半兵衛光寿達6人組が5千両を幕府に

納めて困窮者の救済にあたりました。

 

1877年には、古河市兵衛が足尾銅山の経営に

携わることになります。

 

1884年には、足尾銅山の銅生産量が日本で

1番になりました。

 

1年後の85年には、朝野新聞で鉱毒被害が報道

されました。

 

5年後の1890年には、渡良瀬川が大洪水になり、

そのせいで鉱毒の被害が拡大してしまいます。

 

1年後の91年には、田中正造が第2回帝国議会で

鉱業停止を要求します。

 

5年後の96年には、通洞が貫通します。

 

同年には、田中正造が第9議会において永久示談の

不当性を追求し、有志と雲竜寺に群馬栃木両県鉱毒

事務所を設置します。

 

1年後の97年以降には、禿げ山になってしまった

銅山周辺の山で植林が始まります。

 

この植林は、今現在でも続いているようですね。

 

97年には、鉱毒被害民を退去させ、東京鉱山監督

署長が足尾銅山に対して鉱毒除防工場を命令します。

 

同年には、足尾銅山に関する第1回鉱毒調査会を

組織します。

 

1年後の98年には、大蔵省から鉱毒被害民に対し

て地租条例による普通荒地免訴処分が送られ、該当

者は公民権を失いました。

 

2年後の1900年には、川俣事件がおきてしまい

ます。

 

1年後の1901年には、田中正造が衆議院議員を

辞めました。

 

同年には、田中正造は議会開院式からの帰り道で明治

天皇に直接訴える直訴状を出そうとして遮られてしま

います。

 

麴町警察署で取り調べを受け、夕方頃に釈放されま

した。

 

同年には、田中正造は巣鴨監獄に服役することになり、

銅山や松木村全域を買収します。

 

1年後の1902年には、足尾台風が直撃してしまい、

降水量が315ミリだったため被害が拡大してしまい

ます。

 

1年後の1903年には、古河市兵衛が亡くなってし

まいますが、養子になっていた古河潤吉が足尾銅山の

経営をすることになります。

 

2年後の1905年には、経営している会社を古河

鉱業と改めます。

 

古河潤吉が亡くなり、古河市兵衛の実の子供である

古河虎之助が後継者となります。

 

2年後の1907年には、足尾暴動事件が起き、銅山

施設のほとんどと言って良いほどの大部分が焼けて失

ってしまいます。

 

同年には、足尾分署であったが足尾警察署として独立

をします。

 

1912年には、足尾鉄道が桐生から間藤の間で開通

します。

 

1年後の13年には、田中正造が亡くなります。

 

1944年には、足尾銅山が軍需会社に指定をされ

ます。

 

6年後の50年には、三栗谷用水を鉱毒沈砂池と

して設置しますが、総工費が3200万円ありそ

のうちの100万円を古河鉱業の寄付金でまかな

っていました。

 

8年後の58年には、源五郎沢堆積場が決壊して、

待矢場両堰に鉱毒が流れ入ってしまいました。

 

毛里田村鉱毒根絶期成同盟会を成立しました。

 

1961年には、銅や鉛や亜鉛の貿易が自由になり、

この年以降日本国内の銅山は次第に経営が難しくな

ります。

 

5年後の66年には、天狗沢堆積場が決壊してしま

い、毛里田村鉱毒根絶期成同盟会が古河鉱業に対し

て抗議をします。

 

2年後の68年には、政府の水質審議会で渡良瀬川

の銅濃度基準を0.06ppmで決めました。

 

2年後の1970年には、桐生市水道局が渡良瀬川

を調べそこから基準値を超えるヒ素を検出してしま

います。

 

1年後の71年には、太田市毛里田地区で作られて

いるお米から、カドミウムが検出されます。

 

1年後の72年には、太田市毛里田地区で作られ

ているお米の土からカドミウムが検出されました

が、その汚染は足尾銅山が原因であると群馬県が

断定しますが、古河鉱業はそれを否認していたよ

うです。

 

1年後の73年には、足尾銅山が閉められ製錬事

業は続くことになります。

 

1年後の74年には、毛里田鉱毒根絶期成同盟会

と和解金15億5千万円で和解が成立しました。

 

2年後の76年には、草木ダムを作ります。

 

4年後の1980年には、足尾町に足尾銅山観光

をオープンさせます。

 

9年後の89年には、JR足尾線がわたらせ渓谷

鉄道に転換と同時に貨物を廃止しました。

 

足尾での製錬事業は、これで事実上休止状態とな

りました。

 

2002年には、環境基準の強化のため、本山

製錬所での廃棄物焼却事業が休止になりました。

 

4年後の2006年には、足尾警察署を廃止し

足尾交番になりました。

 

1年後の2007年には、足尾銅山を「負の遺産」

ということで世界遺産暫定リストに載せる方向に

向けて文化庁に要望書を出しました。

 

日本の地質百選に選ばれ、経済産業省が取りまと

めた近代化産業遺産群33の中に「足尾銅山関連

遺産」として認定されます。

 

1年後の2008年には、通洞坑と宇都野火薬庫跡

が日本の史跡に指定されました。

 

2年後の2010年には、製錬場の一部の施設を

残してそれ以外は解体されます。

 

1958年に1度決壊してしまっている源五郎沢

堆積場が、2011年3月11日の東日本大震災

でまた決壊してしまいました。

 

そのため、鉱毒汚染物資が渡良瀬川に流れてしま

い、下流の農業用水取水地点で基準値を超える鉛

が検出されしまいます。

 

決壊してしまった影響で、わたらせ渓谷鉄道の線路

が破損してしまい、同じ年の4月1日まで運休せざ

る負えなくなりました。

 

1年後の12年6月15日には、「足尾銅山写真

データベース」が正式に公開されることになりま

した。